料理人データ

料理人(店主) 大島治 履歴書

昭和37年(1962)2月8日 北九州市門司区で誕生 3000g
昭和40年(1965)4月?
「いつから通っていたのか」さえ定かではない
門司区大里「広斎寺?(こうさいじ)保育園」に通園
*このころからすでに「天然ぼけ症状」発症
 「居残り」なのにうちに帰って鍵の閉った家の前で泣いていたり
 「居残り」じゃないのに残っていて親が迎えに来たりしたことがよくあった  気がする
昭和43年(1968)4月 北九州市立「萩が丘小学校」入学
*目立たないおとなしい男子生徒だったと思う 小学校では鼓笛隊に入っていた。五年生からの担当はシンバル
1曲で1回しか出番がなかったりした。
6年生のときには新しく導入されたトランペットをしたかったのに、『シンバル』に決められてしまった。(T_T)(なり手がいなかったので)。でも、トランペット特別練習には参加させてもらって、少しはふけるようになった。
昭和49年(1974)4月 北九州市立「戸上中学校」入学
*中学の時には「いじめられっこ」だった。
 訳もなく叩かれたり、こづかい(昼のパン代)をたかられたり  いつの間にか学校にいっさいお金を持って行かなくなった。(当然昼食抜き)
中学のときには卓球部に入った。夏休みも休まず練習に通ったけど、一度もタマを打たせてもらえなかった。万年素振り男。
なので2年生からは退部して、新聞配達のアルバイトを始めた。初めて自分で稼いだお金で自転車を買った。・・けど、購入後1ヶ月で盗難にあった。
3年生の冬に、小倉南区長行に引っ越したが、卒業までわずかなので、転校はせず、毎日片道1時間以上かけて通学した。
昭和52年(1977)4月 私立「常磐高校」入学
*中学の時の「いじめっ子」は誰もいなかったし「男子校」というなんの遠慮も見栄もな い学園生活で、
 徐々に「ノーtenki」ぶりを発揮
*体育系美術部に入部し楽しい学園生活。
 時には夕方4時頃(授業の終る時間)から家を出て、部活だけをおくる生活
 徹夜で絵を仕上げる日々に、はじめて「授業中に寝る」という気持よさを覚 えてしまった。
 それからは毎日のように・・・・
*このころ最初で最後の「0点」(数学)という成績を残した。
昭和54年秋 進学について、当然先生も両親も「芸術学部」系に進ものと思っていた矢先
「農学系」に行きたいと言いだして困惑させる。
 *荒廃するこの世の中で、一番大切な食糧確保するのが私の選ぶべき道だと いう強い?意志を持っていた。のだけれど・・・・
昭和55年春 *当然受かるはずもない「国立大学」(琉球大学)受験のため沖縄へ、持って いったものは、参考書や教科書ではなく観光ガイド本だった。沖縄の海はきれい だった。
昭和55(1980)年4月 当然のごとく「国立」はすべって、私立「南九州大学園芸学部」へ入学
 *早速新入生勧誘に引っかかり(それからの地獄のような日々を想像もせず )「空手道部」へ入部
 下宿の先輩に「空手に入りました」と言ったときの「がんばれよ^^;」とい った(ひきつった)笑顔が忘れられない
同年6月 *地獄のような日々に耐えきれず脱走  するも、1週間後に元に戻る。
このときの親父の言葉『人間、やる気になれば何でもできる。楽しいと思ってやれば苦しくないよ。いやだと思ってやれば苦しくなる・・・』という言葉に納得させられたのだった。
同年8月 はじめての夏期合宿
最初11人入部した新入生は、いつの間にか3人になっていた。が、一人は合 宿集合場所に現れず1年生は2人だけで合宿
 合宿中に一人倒れ、結局一人っきりになってしまった。もう逃げようがなく なった。
 *合宿に来なかった一人は、結局そのまま大学にも来なかった。(いつの間 にやら逃亡=退学したらしい)
昭和58年11月 同級生の部員は3人。一人は2年から入部したG君、もう一人は、空手の練習で、両膝を痛め、試合などには出られないけど、ずっとマネージャーをしていたK 君。
当然のごとく、私が主将になった。
昭和59年7月 初めて、全九州個人選手権で、ベスト16に入った。(運がよかった)
全九州強化合宿というのに参加させられた。強豪と一緒に練習をして、でも、意外と楽な練習で、楽しかった。合宿最終日、全九州優勝選手準優勝選手を含め5-6人で飲みに出かけ、門限に遅れて、厳しく起叱られた。・・今となっては楽しい思い出。
昭和59(1984)年2月 とうとう卒業・・の前に「空手道部」の追出しコンパ
 どうやって逃げようかとしか考えていなかった空手を結局最後までやってし まった。
 このときは涙がでた。涙で挨拶ができなかった。人生で一番感動したときか も知れない。
同年4月 ・・なぜか4月。単位の不足もなんとか取戻していったが、研究室だけが・・ ・でも、留年ではなく卒業できた。
 ただ、この4年間、「園芸学部」には通わず「空手道部」に通っていた気が する。
 最終学歴は『南九州大学園芸学部』ではなく『南九州大学空手道学部』だ
はっきり言って、大学の講義内容は何一つ頭に残っていない。こんな大卒者 がいてもいいのか! ん?いっぱいいる?
同年5月 就職活動もろくにできなかった(しなかった)ため?学生時代からバイトして いたプラスチック加工工場に入社
同年8月 一度は養子に迎えたいとまで言っていた工場社長と決別、ディスカウントセンター「ビッグバン 」に転職
昭和61(1986)年1月 精神的肉体的疲労から同社を退社
年末から全23部門のうち12部門を担当して、品出しに追われながらも、レジまでやっていたので、追いつかず、毎日朝6時7時くらいから一人店に出て品出しをし、夜は毎日12時くらいまで残業。自宅は車で5分のところだったが、帰るのもつらく、駐車場で朝まで仮眠。朝5時からまた出勤・・ということを数日間続けていた。・・精神的にもいっぱいいっぱいだったかも
・・・後で考えるとやめるほどのことはなかったと思ったが
フリーター時期 その後いろいろな仕事をやってみる
 某・・真綿 営業>お客様のことを第一に考える人にはむいていない仕事だ った。(と負け惜しみ)
 某干物加工販売会社>自分の車でのセールス ついつい値引きやおまけをしてしまって、割が合わなかった。
 某・・通ゼ・ラル販売>電気屋さんの販売ヘルパー おもしろくて給料も良 かったけど期間社員のためおわり。
昭和62(1987)年2月 宮崎県民生協入協
*いろんな人たちとのふれあいがあって楽しい職場でした。
日南市に移り住んで、のんびりと暮らしていました。
平成 1年(1989)12月 家業手伝いのため退職
平成2年1月 久津の葉にて料理修行の開始
同年4月 北九州調理師専門学校入学
朝市場に仕入れに行って、魚をおろして学校に直行。最後のほうは遅刻が多くなって迷惑かけました>先生
平成3年3月 同校卒業
平成4年10月 調理師学校で一緒だった妻と結婚
平成7年2月 母(初代店主)が、脳出血で倒れて、半身不随となり、刺身なども作るようになった。
平成8年3月 魚町一帯の大火。失業・・はじめて失業保険もらいました
平成8年5月 鍛冶町に移転して、小さなお店で再出発
同年秋 母が、同じビルの3階に「久津の葉はなれ」をオープン。小料理屋のほうは、ほぼ妻と二人で営業
平成9年10月 京町の大きなお店に移転。某銀行から小料理屋の親父には似つかわしくない大借金をした。
でもすべてお金は右から左。開店と同時に運営資金がそこをついていた。
平成11年 あまりの売上に低さに弁当営業を始めてみた。想像以上に風俗店からの注文が多くなり忙しい。配達用にアルバイトを必要とする状態。
売上の半分近くを弁当が占めるようになる。が、忙しいばかりで、店の営業は上がらず、従業員の給料を稼ぐために、休日も妻と二人で働く状態。
「会合」というものに出ると発言せずにはいられない性格が祟って、「理事会」メンバーに。
さらに、頼まれると断れない性格を知られて、誰もやりたがらない「専務理事」とか、「町内会長」まで引き受け、「町のため」と奔走している間に、店の経営状態はさらに悪化!
平成15年 銀行融資の際の担保(親の財産)はすべて競売にかけられ、ついにお店兼住居も他人のものとなってしまって、追い出された。
・・しかし、これが「吉」と出た。
願ってもない物件がみつかって、ココに移転してきた。
ちょっとむかし、大きなお店を経営していたころ、究極の目標としたのは、「夫婦二人でゆっくりと営業できる小さなお店で、ご近所と仲良く、いつも笑って過ごせる暮らし」だった。
少しずつそこへ近づいているのかもしれない。
平成17年 室町に「商業部」というものができた。
まずはグルメマップを製作。
これからもいろいろ街づくりやるんだろうけど、店のほうも忘れずにやらないと・・・
まあ、一言で言うとごく普通の生活をしてきたと言うことです・・・・でもな いか^^;